書名:愛なき世界
著者:三浦しをん
出版社:中央公論新社
出版年:2018年
本村紗英(もとむら さえ)は、東京の本郷にあるT大の大学院理学系研究科の博士課程で学んでいます。藤丸陽太(ふじまる ようた)は、T大近くの食堂で働いている店員です。この本は二人を中心とした仕事と恋愛の物語です。
本村は、「シロイヌナズナ」という植物の細胞や遺伝子について研究しています。ランチの出前のため研究室に訪れた藤丸と知り合います。本村の意に反して、藤丸から恋心を抱かれます。
さあ、本村の博士論文に関する研究は順調に進むのか、藤丸の恋は成就するのか、興味津々で物語は展開していきます。
本村は藤丸に、植物には思考も感情もないので「愛」という概念がないことを話します。さらに、こう伝えました。
だから私は、植物を選びました。愛のない世界に生きる植物の研究に、すべてを捧げると決めています。
書名の「愛なき世界」は、ここから導かれたようです。しかし、研究室の人々はライバルでありながら互いに助け合い、藤丸や店主も愛嬌があり、物語の中身は「愛がある世界」です。
実験研究が大詰めまで進んだ段階で、本村は、うっかりミスで予定と異なる変異株を選んでしまったことに気づきました。
やり直しには、改めてシロイヌナズナを栽培することから始めねばならず、途方もない時間と労力が必要です。実験をやり直すべきか、リスクを負いながらこのまま予定外の実験を進めるべきか、悩んでいます。
研究室の教授に報告しなければと思うものの、踏ん切りがつけません。報告すれば、科学者としての適性がないとの烙印を押されるかもしれないと、不安にもなりました。
研究室のメンバーから親身になって心配され、意を決して教授に報告しました。教授は、科学者らしいアドバイスをして、本村を励まします。
「予定どおりに実験を進めて、予想どおりの結果を得る。そんなことをして、なにがおもしろいんですか?」
「はっちゃけた発想で実験を開始し、たとえ途中で失敗しても、それを楽しむぐらいの心構えで突き進めばいいのです」
理系の、しかも大学院の研究室の様子が、リアリティたっぷりに描写されています。教授には、「仲のいいライバル」であった同僚の研究者を事故で亡くした悲しい過去がありました。
ライバル関係にあっても、良き仲間と連れ立って共に高め合う競争、あるいは、人との比較ではなく自分自身の内なる決意に向かって高める競争であるべきだと、僕は思います。この物語は、まさにそういう競争を表現しているものと言えます。
悲しい部分もありましたが、研究室や食堂の人々の交流が微笑ましく、優しい気持ちで興味深く読み終えることができました。